愛と締め切りのファシズム/オノテツ

昨日も今日も、友人のライブを見に行く予定だったのに、午後になってふってわいたように仕事が発生して、すべてを終わらせたときには、デジタル時計の針はすでに10時をまわっている。
いくら時をかける少年でも、さすがに7時のライブには間に合わず、連日とも断念せざるを得なかったが、急な仕事で夜の予定をキャンセルするなんて、正しい社会人ならいざしらず、正しくない社会人のオレがそれをやってしまうと、正しさの範疇がいたずらに広がってよくない。
だから本当は、きちんと仕事を放りだしてライブハウスに向かわなければいけなかったのだ。


仕事をこよなく愛するオレにとって、仕事を前にしてライブに駆けつけるのは、デザートのケーキを目の前にしながらウンコをしたくなるようなもの。
愛するウンコのためにケーキを捨てるのはしのびないが、ひとくちだけ食ってトイレに駆け込めば、双方への愛が貫ける。
戻ってからまた続きを食うことだって可能だ。
食ってるうちにまたしたくなったら、再び行って帰ってきて続きを食う。
それを何度か繰り返すうちに、どっちを食ってどっちを出したのかわからなくなるが、双方への愛は一段と深まるはずだ。


わかるようでわからない喩えになったが、つまりライブを見終わってから仕事の続きをやってもいいのではないか、ということである。
それを許さないのが、締め切りという名のファシズム
まったくもって締め切りというやつは、自分では何もしないくせに、どうしてああも偉そうに人々の前に君臨しているのか。
「締め」とか「切り」とか、言葉も実に野蛮で暴力的でよくない。
この事実を今までPTAが見逃してきた真意がわからない。
ともあれ、「反締め切り」という旗じるしの下に市民が団結し、革命を起こす日は近いだろう。
志ある首謀者には、ぜひとも今年の12月20日までに計画案をまとめ、来年早々にもそれを実行に移していただきたい。