錻力の太鼓/コジマ

××さん宅に御年始に行った。
××さんのお母さんや幼なじみの方も交え、××××区には×××××××が多くて隣の人も×××××××だとか、××××前になると××××××を宜しくという電話がかかってくるとか実に正月らしい××××話で盛り上がったんだか盛り上がらなかったんだかw
 
 
ところで昨日の晩は、japanの「錻力の太鼓」を明け方まで聴いていた。
playerの今月号でかのアルバムの特集をしており、そのの記事が非常に面白かったのだ。
japanはリアルタイムで聴いていたバンドで、このアルバムも発売当時、中学時代に買っており、今でも時々聴く。
playerにも書いてあったのだが、実はこのアルバムにはほとんど空間系エフェクトが使用されていない。
デイビッド・シルビアン的な雰囲気のボーカルにはいかにもリバーブなどが似合いそうなのだが、聴いてみると驚くほど生々しいドライな音質で録音されており、それはドラムやシンセサイザー、ギターなどに関しても同じである。
件の記事には、このアルバムがどのような工程で編曲/録音されたかが書いてあり、この異様なサウンドメイキングがいかにして生まれたかを知る事が出来て、非常に興味深かった。
尚、ベスト盤の「Exorcising Ghosts」のクレジットには、収録曲の作者と並列にエンジニア/プロデューサーの名前が記されており、この点からも彼らが如何にサンドメイキングを重要視していたかをうかがい知ることが出来る、ような気がする。

歌詞、というか全体的に、文革当時の中国に対するオマージュらしきものが漂っている。
対訳などを読んで考えたのだが、デビは毛沢東主義にシンパシーを抱いた訳ではなくて、既存価値の破壊者、革命の超前衛としての紅衛兵に自分をなぞらえたと考える方が自然な様な気がする(特にA面1曲目の「ART OF PARTIES」が象徴的だと思う)。
「自主的」に売れようと思っていたかどうかはよく分からないのだが(「売れなければいけない」とは思っていたはずである。レコード会社からは相当なプレッシャーが掛けられていたようであるし、解散後のインタビューで「『アート』云々については考えて無くて、あくまで『お仕事』として、『プロの仕事』として作った曲もある」といった意味合いの事を喋っているので)商業的にほとんどアピールしなかった事についてそれなりに敗北感を持っていたのではないか。また、レコード会社から「今度のレコードまでは出してあげるけど、アンタらクビね」と言われていたらしいから、そういう意味においても、デビは文革に利用されたあげく下放された彼らに親近感を持っていたのではないか、と推測する事も出来る。
ところで、アマゾンで検索していたらこの様なレビュー発見。http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000GW87QG/503-3978821-0206348?ie=UTF8&coliid=&colid=
なるほど、サウンドのゴージャス感を求める人には、「錻力の太鼓」で聞かれるソリッドさは「スカスカの音」という印象を与えるのだろうな。俺が持っているのはアナログ盤で、このリマスター盤というのは未聴なので手に入れて聴いてみたいと思う。


 
ええと、何が言いたいのかってえと、これはイイアルバムですよという事ですよ。


ええと、何が言いたいのかってえと、これはイイアルバムですよという事ですよ。