墓守/オノテツ

3時就寝、10時起床。
今日もまた歯医者に行く。
昨日はまだ歯茎の腫れが引いていなかったため、本格的な治療に入ることができなかったが、今日はいよいよ本腰を入れて掘り返すことになった。
緊張して、まるで泳ぐときのようにカラダがこわばる。
痛みもあるが、それより何より根の深いところをいじくられる不快感のほうが大きい。
これから先しばらく通わなければならないが、その都度この気分の悪さを味わわなければならないのかと思い、憂鬱になる。


憂鬱といえば部屋の片付けだが、実はハード面に関してはほぼカタがついていて、あとはソフトの問題が残されているだけだ。
つまり棚や机の位置はすでに決まっているのだが、今まで雑然と積み重ねていたCD、本、ビデオの類がどうにも収まり切らず悩ましい。
それでもCDについては、昨日古道具屋で小ぶりのCD収納家具が安く出ているのを見つけて買ったから、ほぼ解決した。
問題は本とビデオである。
新たに棚やラックを買うゆとりはないから、どこかしらに押し込めなければならない。
もちろん、取っておいたところで改めて読んだり観たりする可能性は低く、それならとっとと捨ててしまえという意見もあるだろう。
しかし、そう簡単には捨てられない。
というのも、読まなくなった本や見なくなったビデオはいわば「知識の墓場」で、そこには記憶力の低下とともに死滅させられた無数の記憶たちが安置されているからだ。
それらの忘れ去られた記憶は、ごく稀にではあるがこつ然と姿を現し、オレの頭の中を引っ掻き回して去っていく。
正確に思い出すわけではないが、若い頃に体験したイメージが亡霊のように蘇り、縮みゆく脳に刺激を与えてくれる。


あるいは墓場など無くても、亡霊はいつでもどこでもお構いなしに立ち現われるものなのかもしれない。
だが墓場が身近に存在することで、おかしな言い方だが亡霊が亡霊であることを自分なりに確認できるし、また必要とあればその出自を辿ることもできる。
妙なことを書いたが、これを書かせた張本人は誰かと言うと、それはおそらくヴィム・ヴェンダースの『ベルリン天使の詩』の亡霊だろう。
学生時代に観たときにはピンと来ない印象の映画だったが、今ごろになってボディーブローのように効いてきているようだ。