忙しい人/オノテツ

この時期は少々やっかいな仕事に関わることになるから、2月の前半まで休みなく深夜まで働き尽くめになると覚悟を決めていたが、ひょんなことから一日まるまる休みがとれてしまった。
休みがとれたというか、それほど働かなくてもよくなったのである。
それほど働かなくてよくなってみると、去年あれほどまでに働いていたことが思い出され、ホントにあれほど働く必要はあったのかという疑問が生じてきて、ちょっとくやしい気持ちになる。
もちろん、回を重ねるにつれて皆の要領がよくなり、その結果今回はたまたま休みがとれたのかもしれず、何とも言えないのだが、どうも騙されたような気がしてならない。
いずれにせよ、予定外の休みに対応できていないことだけはたしかで、こうして1日遅れの日記を書くことで暇をつぶしている次第である。


休みがとれてまずすることといえば、読まずに積んでおいた新聞を片っ端から読んで片づけていく。
新聞にはさまっている広告類にも一通り目を通す。
とっくに終わっているスーパーの安売りチラシなんか見ても意味がないと言われそうだが、たしかにチラシとしての意味は失われているものの、資料として価値があるから一応見るだけは見る。
すると実際、思わぬ発見に出くわすことがある。
発見というほどの大事ではないが、たとえばS社の人気液晶テレビが、食料品や日用品を手広く扱うスーパーのチラシに載っていて、それがY田電機やKジマといった電化製品専門の量販店よりも1万円近く安い値で売られていたりする。
そういう目玉商品を目にすると、「おっ」と思う。
このように、背後に担当者の意気込みや勝負魂が読み取れる一品を見つけると、すぐさま購入しようとは思わないが、確実に印象には残る。
「どこどこのスーパーの電機売り場には時おり勝負をかける担当者がいる」という情報が、アタマの片隅に刻み込まれるのである。
チラシとは即売り上げに結びつくものではなく、むしろ読者に印象付けたりアピールするために存在するのだろう。
ライブのフライヤーなどと同じで、自分たちがいかに活発に動いているかを読み手に訴えるのである。


考えてみると、印刷物ばかりでなく人の行動もまた自己アピールであることが多い。
たとえば忙しく働くということもまた、自分がいかに活発に動いているかを周囲に訴える、ある種の示威的な行為といえるだろう。
わたしはこんなに忙しいんだから、まだまだ仕事ができますと言外に伝えているのである。
だから、「仕事が忙しい人は要領が悪い」という批判をしばしば耳にするが、それはまったくの見当ハズレだ。
忙しくすることこそが重要なのだから、もしも要領よく仕事を片付けてしまったら、その「忙しくする」という肝心の仕事をやらないままに仕事が終わることになる。
それは忙しい人にとっては死活問題で、許されないことなのだ。
また、「忙しい人は好きで仕事をしているだけだ」という意見もよく聞くが、それもまた的外れで、忙しいことがすなわち営業活動だから、好きも嫌いもなく、必要だからしているだけのことである。
その意味で、「忙しい人は自分で自分の首を絞めている」という説は、それはそれで説得力がある。
説得力はあるが、もしも忙しくしているところを周囲に見せつけられずに仕事が減ってしまったら、それこそ自分の首が絞まるわけだから、むしろ忙しくすることによって首に巻かれた縄をゆるめているくらいの感覚に違いない。


ただ、中には「忙しくしている人はアホだ」と一刀両断する人もおり、それについてはたしかにその通りで、異論をはさむ余地がないと思う。
アホというのは「踊る阿呆に見る阿呆」の「阿呆」のことであり、つまり祝祭的ということである。
昔から「日本人は勤勉」などとまことしやかに言われているが、実際にはそうではなくて、ただ単にお祭り好きなだけではないか。
ハードな現場に身を置くと、そのように感じずにはいられないのである。
非日常的な時間の流れの中で仕事をしていると、徐々に高揚してくるらしく、皆止めどころを失って、際限なく憑かれたように仕事をする。
各地の祭りが形骸化する一方で、その精神は資本主義という祝祭の中にしっかりと根をおろしたようだ。
問題は、年がら年中祭りをしていることである。
祭りが日常化してしまっては祭りの意味をなさないのではないかと、一抹の不安を覚えなくもない。